金沢・片町の路地を入ったところに、そのお店はある。看板はごく小さく、看板というより、墨で書かれた「酒処 なかむら」の四文字が木の引き戸にそっと掛けられているだけ。うっかりすれば、通り過ぎてしまう。
引き戸を開けると、ふわりと出汁の香りが鼻をくすぐり、L字のカウンターに白木の椅子が八脚。それだけの、小さな店だ。
能登の海から、カウンターへ
中村さんの一日は、早朝4時半から始まる。片町から車を走らせ、能登・宇出津港へ。毎朝、自分の目で魚を選ぶ。それが、この店を始めてから一度も欠かしたことのない習慣だ。
「魚を食うのは、人間だけじゃないんですよ。
海の恵みは、季節ごとにぜんぶ違う。
だから、その日の海が、今日の一皿を教えてくれるんです。」
午前10時、仕込み開始。カウンターに並ぶ酒器を磨き、米を研ぎ、出汁を引く。中村さんが動くと、店全体がゆっくりと目を覚ましていくようだ。
港で毎朝、魚と対話する
宇出津の魚市場で中村さんが何より大切にしているのは、「魚の目」だという。
- 目が澄んでいるか — 鮮度の基本
- 腹が張っているか — 脂の乗り具合を見る
- ヒレが痛んでいないか — 扱いの丁寧さがわかる
- 漁師の顔 — 誰が釣った魚か、を知っているかどうか
「仲買の人から買うんじゃなくて、その日浜に上がった漁師さんから直接。顔が見える魚しか、うちには置かない」
カウンター八席、その意味
なぜ、八席なのか。聞いてみると、中村さんは少し照れたように笑った。
「八人分なら、その日の海の話を、全員にちゃんと聞いてもらえる。それが私の、もてなしの範囲なんです」
開店は17時、ラストオーダー22時
夕方5時、のれんを上げる。1時間もしないうちに、カウンターは常連客で埋まっていく。地元の医者、大学の先生、金沢に出張で来た商社マン、近所のママ——。中村さんは一人ひとりに、静かに挨拶をする。
そして、まず出されるのはお通しの「白身魚の酒蒸し」。能登で獲れたその日のおすすめを、昆布だしでさっと蒸した、シンプルな一皿。素材がすべてを語る、なかむらの哲学が凝縮されている。
石川の地酒を、魚に合わせて
なかむらの、もう一つの顔。それは石川の地酒に関しては、金沢市内随一の品揃えを誇ることだ。
店主の中村さん自ら、月に一度、能登・加賀の酒蔵を訪ねる。その年、その蔵、そのロットでどう味が変わるか。飲み比べながら、季節の魚と最も合うお酒を選んでいく。
| おすすめの組み合わせ | お酒 | 季節 |
|---|---|---|
| ノドグロの塩焼き | 鶴野 純米吟醸 | 秋〜冬 |
| 甘エビの昆布〆 | 天狗舞 山廃純米 | 一年中 |
| 鰤しゃぶ | 遊穂 生酛純米 | 真冬 |
| 白海老の唐揚げ | 菊姫 加陽菊酒 | 春 |
| 岩牡蠣 | 天狗舞 純米大吟醸 | 夏 |
酒器選びにも一切の妥協なし
お酒を注ぐ器も、一つひとつ、中村さんが能登・加賀の作家から直接買い付けたものだ。九谷焼、珠洲焼、山中漆器。器に触れる指先の温度で、お酒の香りが変わることを、中村さんは知っている。
「お酒は、舌だけじゃなく、手のひらで味わうもの。
だから器は、そのお酒に一番似合う子を選ぶ。」
常連さんが語る、なかむらの魅力
取材中、隣に座った常連客の男性に、ふと話を聞いてみた。金沢市内で開業している内科医、田中さん(仮名)。週に二度は、なかむらに通うという。
「ここの良さは、中村さんが美味しいを押し付けないところ。『どうぞ』って言いながら、素材を信じて出す。お客はそれを、素直に受け取る。だから、食べるっていう行為が、少し神聖になる。うまく言えないけど、他の店とはぜんぜん違うんですよ」
まとめ:一生通える一軒
取材の最後、中村さんに聞いてみた。「これからの目標は?」
少しだけ、間があって、こう答えた。
「目標はないんです。毎日、同じことを繰り返すだけ。
でも、同じことを、少しずつ深く、丁寧に。
それが、私にできる唯一のこと。
そして、カウンターの向こうで、お客さんが最初の一口で目を閉じる瞬間を、見られれば、それで十分です。」
——お店を出ると、路地の向こうに、片町の賑わいが戻ってきた。でも、なかむらで過ごした二時間は、金沢という街の喧騒とは別の、静かな時間の層に、そっと置き去りにされていた。
石川を訪れたなら、ぜひ一度、この小さなカウンターに腰を下ろしてみてほしい。
店舗情報
- 酒処 なかむら — 金沢市片町2-X-X
- 営業時間:17:00-23:00(L.O. 22:00)
- 定休日:日曜日
- 席数:カウンター8席のみ(完全予約制推奨)
